「本当の思いやり」ができるようになりたいと思います。
まだ道半ばですが、そこまで到達すれば、
「心と魂の解放」は、ほぼ達成されたと言っても良い気がします。
今まで、書き綴ってきた事全てが身に着くようになれば、
トラウマからも解放され、「本当の思いやり」も出来るようになる気がするからです。
もちろん、この過程を無意識のうちに出来るようになっている人もいると思いますが、
私の様な場合、繰り返し努力することで、いつかは、身に着くと信じたいからです。
「本当の慈悲」のレベルとなると、どれ程高度なものか見当もつきません。(神様のお慈悲)
社会で生活していると、執着を消し去ることは、とても難しいからです。
本当の思いやりなら、執着を弱めれば、完全に消し去らなくてもできる気がします。
思いやりには、対象の「人や生き物」に対する思い入れが付いて回るからです。
「思いやり」は、
人間が、生物として、そして集団として生き残るために、
進化の過程で獲得した、遺伝的な性質であると同時に基本的文化の一つだと思います。
人類は、「思いやり」抜きでは集団の維持も、地上での繁栄もできなかったでしょうし、
これからも生き残れないでしょう。
「世の中は弱肉強食。人が良いと、身を滅ぼす。」と考える向きもあるかもしれませんが、
現実の世界では、信頼と助け合いに満ちた集団の方が生き残ります。(参考書105、213)
人間ばかりでなく、集団を作りながら生活する生き物は皆そのはずです。
さて、そもそも、「思いやり」とは何でしょうか。
辞書的に言えば、「相手の身になって、思いを巡らし、
相手にとって良かれと思われる行動をとったり、発言をしたりする事。」でしょう。
まず「相手の立場になる」と言う事が、簡単ではありません。
心に余裕がないと、自分の立場が先行してしまいます。
更に、相手の身になるには、
相手の性格や置かれている状況、考えている事を理解していないと、
相手の為と思って行った事が、的外れになり、
相手からは、「押しつけ」とか「うっとうしい」と思われ、
決して、心に届きません。
心に届けば、たとえ、敵対していても、和解の糸口になる気がします。
「思いやり」は、
心に届く強力なコミュニケーション・ツールにもなるはずです。
「思いやり」は、
健全な愛に包まれて育てば、自然に発達する心だそうです。(参考書214、313)
本来なら、「思いやり」は、誰でもできるはずです。
しかし、育っていく過程で、様々な障碍に見舞われ、
「思いやり」の性質が素直に現れなくなってしまった人も大勢います。
早くから冷たいくらいに厳しく躾ける育児が、世界中で常識になった時代がありました。
私もその被害者かもしれません。
日々思いやりの不足で苦労しています。
「あの時、もう少し相手の事を考えて、タイミングや言い方を変えていたら、
もう少し聞く耳を持ってもらえたかもしれない・・・」
と、悔む事がしょっちゅうです。
私のような場合でも「思いやり」の性質は取り戻せると思っています。
まず、相手の立場になれるだけの心の余裕を持つこと。
それには、「心のリセット」をする事です。
しかし、これだけでは、不十分です。
小さい頃から思いやりがあれば、
感受性が豊かで、しなやかな心を持つ人に育ち、自然に身に着く何かがあるようです。
私には、それがないから困っていました。
それは、「相手の性格や置かれている状況、考えている事を察する事」です。
視野を広く持つ事は、その助けになると思います。(参考書214)
相手の性格を理解する。(参考書303、311)
相手の状況や考えを理解する。(参考書312)
相手の体調・情緒・知性のコンディションを知る。(参考書309)
人生経験豊富な人の考え方を知る。(参考書213)
そして、全体を俯瞰しながら、問題の核心を臨場感をもって感じ取る力。(参考書307)
今、こう言った諸々の事が身に着くよう、日々努めているところです。
修正:2009年8月15日
<追記> - - - - - 2014年10月17日
相手の心に配慮しないと、思いやりとは言えないですね。
自分の意見や考えを言う前に、先ず相手の言いたいこと、気持ちや事実を含めて確認し、
更に、相手の信条や事情、性格など、心の背景まで大体見当を付けたうえで、
相手の立場になって考えなければ、
相手への言葉や態度が、心に響き、受け入れられることは滅多に無いでしょう。
思いやりとは、そうゆうもので、単なる同情や憐れみとは違うようです。
自分の理解不足などで、まだ相手をここまで思いやれそうもないときは、
相手のプライベートな部分まで踏み込む発言や行動は控えた方が良いですね。
どうしても踏み込む必要があるときは、
相手の信条や事情、性格などを会話を通して探り当てるのが先決でしょう。
参考:「対話法」
そして、相手の立場になって考えるには、
自分が、怒りや悲しみに囚われていたら無理で、心に余裕が必要でしょう。
参考:「自己受容」
「相手に向けた言葉や態度が、心に響き、受け入れられることは滅多に無い」との前述で、
「滅多に」と言うのは、例外もあるからです。
例えば、怒りがこみ上げた時でも、その奥にある自分の悲しさを見つめ、
この悲しさを相手を攻める言葉でなく、自分の気持ちとして、素直に表現できた場合には、
相手の方が、思いやりを発揮して、受け入れてくれることもあるでしょう。
参考:「アサーション」
- - - - - (以下15行、2016年1月1日追記)
相手の立場になるというのは、相手に同化したり同情することではありません。
相手の思いは、完全には分かりません。
これをわきまえないと、やることなすこと、押しつけがましくなります。
できることは、あくまで類推です。
自分の経験や過去の思いを振り返りながら出発点とし、
その時の状況と相手の状況と照らし合わせながらの類推です。共感に近いものです。
そのうえで、類推したことを言葉にして、的をえているかどうか、試してみてください。
例えば、『〜〜〜〜と、思っているのですね。』というような具合に。
類推したことを話すときにも、押しつけがましくしない雰囲気が必要です。
違っていたら、相手の人が、そうではないと安心して話せる雰囲気を予め整えておくことです。
声にこもる感情、相手の人との体の位置関係や姿勢など、言外に現れる態度です。
自分の気持ちを整えておくのも大事な点で、そうでないと、ぎこちなくなります。
思いやりは、上から目線の憐れみでもありません。
隣に寄り添って、少しだけ支えるようなものです。
支えるには、自分までヨロケていてはできず、自分の心の調整も必要です。