日本人の起源、魂のルーツへ
この混迷の時代、日本はどこへ向かうのでしょう?
答えのカギは、民族としての魂にあります。
判断に迷っても、魂に気付くと、自分らしい動きが出来るようになるからです。
魂のルーツを探り、日本人の起源を遡ってみたくなりました。
日々の暮らしの中では、一見、無関係のような遠い過去。
何千年、何万年も遡る事に、何の意味があるのか、疑問に思われるかもしれません。
私達は、見たり、聞いたり、触ったり、味わったり、嗅いだり、
時々刻々、判別し、評価し、自分の思いや考えを巡らせながら、
記憶の中に蓄えたり、言動や行動に移したりしています。
情報を入れ、加工し、蓄積し、自分の表現に込め、そして他者が情報として受け取る。
このリレーの中で、人から人へと、綿々と伝えられ、引き継がれる部分があります。
この繰り返しの中に、無意識のうちにも、自分らしさが表れ.る部分があります。
皆の自分らしさが重なり合って、その集団らしさが醸し出されていきます。
私達、日本人にも、こうして醸し出され、受け継がれてきた物があります。
それが、日本人の魂です。
このルーツを探るには、考古学や文化人類学、民俗学、言語学、遺伝学などが頼りです。
近年、この分野において、発見や新説も増えてきました。
注目すべき説を選んで整理し、未知の可能性にも言及してみました。
【氷河期・旧石器時代の渡来人】
過去12万年の間で、最も寒冷化が進んでいた、2万年前には、
異る言語をもつ@〜Cの集団が、共存していたようです。
日本人の起源としては、@が最も古く、Cまでの4集団が日本列島で一緒になり、
縄文人の基になったようです。
狩猟と採集で生活し、複数のキャンプ地を移動しながらの生活だったようです。
家族ごとにまとまりながら、複数の家族で集団を作り、この集団単位で暮らしていたようです。
大型動物の狩猟は、組織的に動かなければできないし、高度な石器づくりの伝承も考えると、
複雑な言語を操っていたと推測されています。
小競り合いはあっても、相手を駆逐するほどの争いはなかったと推測できます。
ある程度通じ合うまで、言語の混合が進んでいたのか。
あるいは、言葉を使わない沈黙交易などにより、平穏な関係を保っていたのかもしれません。
サフル大陸系に近い言語とアルタイ語系(満州・シベリア)の混成かもしれません。
その証拠に、それぞれの集団が持ち込んだ遺伝子は、現代まで温存されています。
例えば、白血病ウィルスHTLV−1は、母子間、夫婦間で感染します。
アフリカから人類の進化拡大に伴って、伝えられたと言われています。
中国や朝鮮にはなく、日本人には高頻度で見つかっていますが、
これを持ち込んだのは@の集団であるとの推察があります。
日本人以外にこのウィルスを持つ民族は、アフリカ、オーストラリア先住民やパプアニューギニア、フィリピン、南米先住民、カリブ海住民、イヌイット、スウェーデンサーミー族、南インド、イラン内陸部、イタリアです。
オーストラリア先住民は、現生人類のうち、最も古くアフリカを出て広がった集団の特性を保ち、10万〜5万年前には、海を渡り、オーストラリアに到達していると言われています。
日本列島に現生人類が最初に渡ってきた@の集団も、この近種との推測があります。
注釈) オーストラリア先住民の移住経過を遡ると、無人の新天地には広がるものの、
他の民族の中に分け入ったり、他の民族を支配したりする文化は無かったようです。
そう考えると、日本列島にこの近種が移住したのも、他に先駆けてと推察できます。
ただし、わずかな可能性として、DやEの集団により、移住させられたかもしれませんが、
これでは、HTLV-1ウィルスが中国や朝鮮になく日本で高頻度である事が不自然になります。
古いDNAや骨格の比較研究が進めば追認できるでしょう。 ・・・・・(2011年2月12日6行追記)
追認できそうです ⇒ https://youtu.be/W8Tq7d4dLZ0 ・・・・・(2016年9月17日1行追記)
〃 ⇒ https://youtu.be/n6VjltZm5GA ・・・・・(2016年8月16日1行追記、9月17日差替)
「豪先住民、7万年前にアジア一番乗り」【シドニー共同】
オーストラリア先住民アボリジニの髪のゲノム(全遺伝子情報)を解析した結果、アボリジニがアジア人よりも早い別の時代にアフリカからアジアに最初に到達し、その後にオーストラリアへ渡った可能性があるとの研究結果を西オーストラリア大などの研究チームが23日付の米科学誌サイエンスに発表した。
オーストラリアのメディアなどによると、これまではアフリカにいた人類の祖先が現在の欧州人の祖先に分かれ、さらにアジア人、アボリジニの祖先に分派したとの見方があった。しかし今回の研究は、アボリジニの祖先がアジア人らの祖先より一足早くアジアへ移っていたことを示唆する内容で、人類史を探る上で重要な発見となりそうだ。
研究では、100年近く前にオーストラリア西部に住んでいたアボリジニの髪の毛を基に、遺伝情報を解析。その結果、欧州系白人などから遺伝的要素を引き継いだ形跡は見つからなかった。
このことなどから、アボリジニの祖先は、欧州やアジア人の祖先がまだアフリカ周辺にとどまっていた時代に既にアジアへの移動を開始し、アジア人の祖先より2万4千年以上早い7万年ほど前にアジアへ移った後、オーストラリアへ渡ったと考えられるという。
・・・・・(2011年10月3日15行追記、2011年9月26日付け新潟日報7面より引用)
オーストラリア先住民に見られる原始的な船は、「樹皮船」(カヌー)であり、
柔らかい木の幹を刳り抜いて樹皮を残し、その中に枝などで作った骨組を入れて補強します。
日本に初めて来た船も、樹皮や獣皮を使った同様の船だったのかもしれません。
(地中に埋もれると、分解が速いので、発掘は困難なようです。
但し、酸素が供給されない泥に埋もれた場合は、草木もよく保存されます。
また、貝塚や鍾乳洞は、アルカリ性が保たれ、動物の骨格がよく保存されます。)
【土器の発明】
土器は、氷河期の2万年前から渡来し始めたCの集団と何らかの関係がありそうです。
日本列島最古の土器片は、16,500年前の青森県の大平山元T遺跡で見つかっています。
この時期を縄文時代草創期と呼びます。(世界最古級の土器)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%B9%B3%E5%B1%B1%E5%85%83I%E9%81%BA%E8%B7%A1
九州では、その土地の最古の土器が、細石刃と一緒に発掘されることがあります。
世界で最古の物は、中国南部の湖南省で出土した物が、2009年に年代測定の結果、
18,000年前と出ており、広西チワン族自治区の物も同程度と言われています。
http://masakawai.suppa.jp/encartaAA/bunka/saikonoinasaku/saikonoinasaku.html#
http://unkar.org/r/scienceplus/1244123435
・・・・・・・・・・(2011年2月22日4行追記)
土器は、素焼きで作ると言っても、簡単な作業ではありません。
使用する粘土にも注意が必要で、水分や空隙、有機物の混入があると、
焼いているときに発生するガスの圧力で、破壊してしまうことがあります。
空隙や有機物を取り除きながら均質にこねた粘土で作り、
予め良く乾燥させておく必要があります。
焼く時も、徐々に均一に温度を上げないと割れやすく、
数時間かけて600度超〜800度近くに上げていきます。
このような技術をどのようにして発見したのでしょう?
発見に至る必然性はどこにあるのでしょう?
A.数時間に及び、勢いよく火を焚き続ける事
B.予め良く乾いた粘土細工がある事
この二つは、必須条件です。
Aは、勢いよく数時間燃え続ける火を崇める行事や儀式があったのではないでしょうか。
このような儀式があったとしても、私は、心情的に理解できます。
さいの神と呼ばれ、集落総出で行う小正月の行事が今も雪国越後には残っています。
何らかの関係があるかもしれません。(どんど焼きなど、日本各地で色々な呼び方があります)
Bは、移動生活の中でも携帯できる粘土アクセサリー、
あるいは、粘土人形のようなものがあったのではないでしょうか。
1年の締めくくりに、Aの火に入れておき、粘土が焼き物に変わる事で、
再生の証とし、春を待つ行事や儀式を彩ったのかもしれません。
チェコのドルニ・ヴェストニッツェ遺跡からは、25,000年前頃の土偶が発見されています。
http://jomontaro.web.fc2.com/newpage177.html
例えば、このようにして焼き物の技術を発見していた後なら、
この技術を容器に応用するのは、もう少しの工夫です。
あとは、土器の必要性の問題だけです。
何か、解決を迫られる課題を抱えていたのではないでしょうか。
日本で発見された、最も古い土偶は、
三重県松阪市で出土した12,000年〜11,000年前の小型の物、
滋賀県東近江市で出土した11,000年前の小型の物があります。
土器が誕生した土地で、土偶と土器どちらが先に誕生したか、確証はありませんが、
土偶など、土器以外の焼き物が、先にあったと考える方が、私としては納得できます。
今のところ、日本列島で出土してい.る物は、土器の方が古いです。
よそで誕生した土器の技術が、日本列島へ持ち込まれたと考えた方がよさそうです。
・・・・・(2011年2月22〜24日7行追記)
【氷河期の終了と南からの渡来人】
12,000年前の縄文時代早期に入ると、温暖化が更に進み、落葉広葉樹帯が広がり始め、
土器を使ってドングリや栃の実を茹でて、アク抜きする方法が広く普及し始めました。
これにより、食糧が安定化し、定住化が進むとともに、各地の独自文化も発達し始めました。
定住化により、言葉はかえって地域の独自化が進む一方、
南方からDの集団が入り、造船技術を進歩させました。(遺跡から円筒形磨製石斧が出土)
(これは、東南アジアで生まれた丸木船製作用具と推定され、後にはポリネシアまで分布)
http://www.kahaku.go.jp/special/past/japanese/ipix/3/3-05.html
http://www.kuniomi.gr.jp/geki/iwai/sekihiro.html
http://ao.jpn.org/kuroshio/bonin/bonin2002.pdf
http://www14.plala.or.jp/bunarinn/plala/dairya/encarta/kurosio/marunomi/marunomi.html
東南アジアでは、今は海底の大陸棚が、2万年前には広大な陸地になっていました。
スンダランド、ナンハイランド等があり、海面上昇に伴い、沈み続けていました。
Dの集団はここを故郷とし、水上生活と造船技術、航海術を発展させたと推測されています。
沿岸伝いに船で日本列島を沖縄から北海道まで行きして交易を活発化させ、
交易用に新たな共通語もでき始めたものと、私は推測します。
恐らくスンダランド系の言葉を中心にしたのではないでしょうか。
日本人の起源として、言語的、文化的には、強い影響を与えたと推察します。
【黒潮の増大と沖縄との途絶】
時代と共に海面上昇が進むと、琉球列島と九州の間には、激しい黒潮が流れ始めます。
恐らく、これが1万年前に起き、Dの集団の航海技術では往来できなくなり、
その後、再開できるまで、数千年の間、往来が途絶したものと、私は推察します。
沖縄で発見された古い土器は、6,500〜6,000年前の貝塚時代のものですが、
これは北部九州で1万年前頃登場していた爪型文土器の様式です。
この時期の九州では、土器は曽畑式や轟式に変わっています。
また、7,300年前の九州南部の貝文土器は、沖縄には伝わっていないようです。
http://native.way-nifty.com/native_heart/2005/10/post_fb44.html
5,000年前頃の土器になると、九州で作られていた曽畑式に変わります。
http://ryukyushimpo.jp/news/storyid-114522-storytopic-86.html
http://atuhistory.fc2web.com/ryukyu/old/old2.htm ・・・・(以上3行、2013年2月5日追記)
【天変地異と沖縄からの来訪】
7,300年前、薩摩半島南海上50Kmで巨大噴火がおこり、鬼界カルデラができました。
南九州一体はその火砕流で壊滅。
この一帯は噴出物で60p以上埋め尽くされ、火山灰は東北地方にまで達しました。
(時代区分では、これを縄文時代早期の終わりとし、以後を縄文時代前期とします。)
http://www.edu.gunma-u.ac.jp/~hayakawa/bosai/hakyoku/hakyoku.htm
恐らく巨大津波も発生し、南九州、沖縄、四国沿岸、更には中国沿岸から朝鮮半島まで襲い、
低い土地にあった住居は押し流されてしまったでしょう。
沖縄で6,500年前より古い遺跡が見つかっていないのはその為かもしれません。
あるいは、より古い遺跡は、海面上昇に伴い、現在の海面下になっている可能性もあります。
爆発の噴煙は、成層圏に達し、上空3万mに届いたとの説があります。
この通りとすれば、500Km離れた、沖縄本島の海岸からも、
北の水平線に、噴煙の高さが、太陽の見かけの2.3倍に見えます。
沖縄本島最高峰の与那覇岳の頂上(503m)に登れば、太陽の3.6倍に見えます。
噴煙の高さが2万1千mだとすると、海岸からは太陽の0.3倍、山頂からは1.6倍です。
向こうで何が起きたか、冒険心があれば、恐らく探索に向かったはず。
昼間は噴煙が見えるとは言え、黒潮の急流に流されて行方不明になる者もいれば、
出直して新たな準備により漕ぎきって到達する者もいたはずです。
到達したとしても、噴煙が上がる所には、上陸できる島は無く、噴出物が漂っていたでしょう。
死に絶えたようになった屋久島、種子島などの残された島々、そして鹿児島方面があり、
そこから北上し、かすかに木々が残る土地を見つけられたかもしれません。
沖縄と何回か往来し、無人となった土地に真っ先に入植したかもしれません。
更に、四国、淡路島、本州など日本列島全体のありさまを確かめたかもしれません。
【遠洋航海集団の到来】
5,500年前、縄文時代前期が終り、縄文時代中期が始まる時、Dの子孫Eの居住地では、
従来の航海術が、星等を頼りに遠洋航海する伝統航海術が芽生えたと、私は推察します。
後藤明著の下記参考書で「海人」と呼んでいる集団の始祖は、多分Eでしょう。
海人が広めたオーストロネシア語の祖語も、Eの集団の言葉であると、私は推測します。
Eの集団が、黒潮の急流を越え、日本列島や朝鮮半島に到来したものと、私は推測します。
・・・・・・・(2011年2月21日6行修正)
この頃、九州と琉球列島間の黒潮の急流を越えた往来が頻繁になったものと推測します。
5,000年前の沖縄の遺跡からは、九州の曽畑式土器が出土しています。
伊豆諸島の三宅島と八丈島間も黒潮急流を越え、当時の縄文土器が運び込まれています。
この頃以降の各地の縄文遺跡から、熱帯地方原産の栽培作物の導入、漆塗り製品の誕生、
原始的な定置網漁も始まり、生産活動の幅が格段に広がっています。
自然そのままの恵みを狩猟・採集したり、多種多様な環境をそのまま活かした栽培や収穫、
場所によっては、焼畑農法などもゆったりと行っていたようです。
交易用に琉球列島産の貝製品、新潟県糸魚川の翡翠製品も大量に作られるようになり、
広範囲の遠距離交易も盛んになり、北海道から沖縄まで運ばれています。
日本列島全体が、ゆとりのある豊かな時代になり、
多彩な文化・技術の発達を伴った縄文時代中期に入っていきます。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B8%84%E6%96%87%E4%BA%BA
日本人の起源として、Eの集団は、文化や言語、精神性にも影響を与え続けていたでしょう。
沖縄県糸満の漁師が行うという遠洋航海や遠洋魚業も、この時以来のものかもしれません。
【水田造営技術の伝来】
Eの集団が行う遠洋航海による交易は広がり続け、3千年前には、オーストロネシア語が、
西はスリランカ、東は南太平洋のトンガ・サモアまで届いていたと推測されています。
注)2400〜2500年前スリランカにシンハラ国が建国される前からいた住民の中には、
ウェッダ人がおり、オーストロネシア語との関係が深いウェッダ語を使っています。
なお、シンハラ語とウェッダ語の間にはデリケートな心理的問題があるようです。
インドには、類縁のオーストロアジア語を話す種族も住んでいました。
インドには、鉄器が伝わっており、これを使った水田造営技術が発達し、
揚子江河口付近では、温帯ジャポニカ米が栽培されていました。
Eの集団は、交易品生産の為に、アジア各地の進んだ技術や品種を選択的に採用し、
その土地の地質や気候に合う生産技術を伝えたのではないでしょうか。
これにより、弥生時代が幕をあけたものと、私は推察します。
大野晋氏が提唱するように、南インドの技術や文化が、
北九州や朝鮮半島南部にもたらされたとしても、私は何の不思議も感じません。
日本人の起源にとって、水田稲作は、文化や精神、魂に深い影響を与えていると推察します。
【水田稲作の伝播】
本格的な水田稲作は、3千年前に九州北部で始まった後、東へ広がります。
その広がりは、ゆっくりしたものでした。
大阪付近に達するまで400年、奈良付近で500年、名古屋付近で600年かかりました。
現在私達が目にする水田稲作は、徹底した管理を行い、稲を守り続け、収穫に至ります。
これ程まで管理しないものの、3千年前でも、かなり人為的な環境を作り管理しています。
これ以前、縄文時代にも、稲が作られていた痕跡は残っていますが、
水管理の楽な陸穂や自然湿地の中で雑草に負けない品種だったのではと推測されています。
縄文時代も、作物を栽培していましたが、この水田稲作とは管理レベルが全然違います。
労働生産性に限って言えば、縄文式生産の方が、弥生式より高かったかもしれません。
注)この大変な農作業、特に、土と格闘する作業は、容易ではありません。
九州北部で始まった水田稲作の初期から、鉄器が使われたと言う説もあり、
鉄器の供給が、水田稲作普及のネックになっていた可能性も指摘されています。
このような人々が、弥生式の生産活動を受け入れることは、容易ではなかったでしょう。
文化まで変えないことには、受け入れることはできません。
昨日まで芸術家集団だった者が、今日から一糸乱れず几帳面に生きるようなものです。
単位面積当たりの生産性、食材としての魅力から、
諸々の障害を乗り越えて、縄文人も取り入れていったものと、私は推察します。
文化の融合、精神の二重構造化により、実現したのではないかと、私は推察します。
その為に、水田の伝播には、時間が必要だったものと推察します。
縄文人は、弥生人に駆逐されたのでなく、融合したり変化したという証左でもあります。
【水田が広がらなかった地域】
それほど、縄文人にとって魅力のあった水田稲作ですが、
土質や気候の関係で、水田稲作が難しい地域もありました。
火山灰地域や保水の難しい土地、寒冷な地域などです。
http://www.niaes.affrc.go.jp/magazine/103/mgzn10306.html
これらの地域では、弥生文化が入らず、長らく縄文文化が続いていきました。
また、北海道や東北地方では、オホーツク海や日本海北部を渡る民族交流、
沖縄では、東シナ海やフィリピン海を渡る民族交流など、他地域とは異なる交流により、
次第に弥生文化地域との違いが開き、別々の民族であるかのような様相になりました。
遅くなってから、弥生文化を入れた地域もありますが、
そのまま入らず、政治体制も別々なまま、明治を迎えてから、
日本と言う近代国家の枠組みに組み入れられた地域もあります。
現在、日本の国に入っている地域は、遠く遡れば、
縄文と言う文化基盤を、大体において、共有しています。
参考書籍
日本人の起源 2009年 ニュートンプレス
縄文の生活誌 岡村道雄著 2008年 講談社学術文庫
(原本:日本の歴史・第1巻改訂版 2002年 講談社)
縄文土器の研究 小林達雄著 1994年 小学館
縄文宗教の謎 吉田敦彦著 1993年 大和書房
海を渡った縄文人 橋口尚武他共著 1999年 小学館
星の航海師 星川淳著 1997年 幻冬舎
海を渡ったモンゴロイド 後藤明著 2003年 講談社
海から見た日本人 後藤明著 2010年 講談社
弥生時代はどう変わるか 広瀬和雄編他共著 2007年 学生社
日本語のルーツをさぐったら 安部清哉著 1997年 アリス館
日本語の起源を探る 安本美典著 1985年 PHP研究所
日本語の源流を求めて 大野晋著 2007年 岩波新書
日本海は、浅い狭い海峡で他の海と連絡しています。その海峡と深さは、対馬海峡が130m、津軽海峡が130m、宗谷海峡が55m、間宮海峡が12mです。海面の高さは、12万年前に現在とほぼ同じだったものが、何回もの上下を繰り返しながら、次第に下がり、2万年前には、現在より120m低い位置になっていました。何回も、カスピ海のような内海になりかけては、潮の干満などによる潮流で海峡の底が削られたものと推察します。地中海と黒海にあるボスポラス海峡のように、対馬海峡と津軽海峡が維持されつづけ、2万年前に最も深く削られて、現在からみれば130mの深さになったものと、私は推察します。
参考:過去14万年の海水準変動のグラフ(アーカイブ) IPCC TAR, figure 11.4
|