・・・・・魂のルネッサンス 心と魂の解放 ・・・・・
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<第6章-1>     まだ何かが足りない

トラウマとは、だいぶ上手く付き合えるようになってきました。
散々な目にあっても、心のわだかまりは、あまり尾を引かなくなりました。
これからは、この効果が現れ、もっと、生やすくなることを期待していました。
しかし、まだ何か足りないようです。
魂と魂の触れ合いが深まることを期待しましたが、
まだ、うまくいきません。

罵る言葉、突き放す言葉、見下す言葉を投げかける人の前に出ると、
こんな言い方では、あの人は感情的になる、あんな言い方もダメかと考えているうちに、
言葉が出なくなって、伝えるべき事の半分も話せず終わってしまったり、
あるいは、すくんでしまって、話すタイミングを逃したり。

トラウマが、完全には、消えていないのかもしれません。
幼い心が傷ついた時の恐怖は、40年以上たった今も、まだ消えていないようです。
それでも、とにかく、話さないことには始まりません。
恐怖を押し切って、話し出せるようには、なってきました。

だいぶ良くなってきた部分もあります。
叱られ怒られ罵倒されていても、
その中から、神様の示唆を、汲み取ることが出来るようになってきました。
真摯に聞く姿勢とは、こう言うものなのでしょうね。
以前なら、話が早く終わらないかなと言う思いが先に立ち、
話は聞いていても、言葉尻しか耳に残らず、
話が右から左に抜けていくように、文脈が読み取れず、
肝心なことを、聞き逃していました。
腰の引けた姿勢になり、火に油を注ぐようなことになっていました。

魂の受信能力は向上していると感じています。
でも、まだ、道半ばです。

無理矢理でも自分の魂に自信を持ち、摩擦を恐れず主張するのも、一つの方法でしょうが、
本物ではないと思って、踏み止まっています。
そこには、落とし穴があります。
独りよがりの正義感を振り回すと言う、落とし穴です。

仮に、正義が、独りよがりでなかったとしても、
押し付けになってしまっていたら、
一時は、押し通せても、後に続かず、逆に恨みを残すことにもなりかねません。

西洋諸国が、植民地支配に前後してやったことや、
第二次世界大戦の前やその最中に日本がやったことは、まさにこれだったのでは?
今、善意で行動していると主張して、過激な事をやっている団体も、これかもしれません。
以前の私も、似たような所があり、極端から極端に振れると言われたことがありました。
大上段に振りかぶった議論をしたかと思ったら、
瑣末なことにとらわれて、肝心な所がずれていると言われたことがあります。
自信に後押しされて、魂を表す行動をとるのは、本当の魂の表現ではないようですね。

慈悲の温もりを共通の基礎として臨み、
ともに通じる魂を介して、ともに成長する。
その為の自分の魂の表現でありたいと思います。
しかし、思いがつのるばかりで、手掛かりが分かりませんでした。
魂と魂の触れ合いを深める方法を探し求めました。

修正:2009年8月14日





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