・・・・・魂のルネッサンス 心と魂の解放 ・・・・・
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<第7章-1>     死後の地獄は不要品

死んだら、地獄に落ちる。とか、
そんな事をしていると、神様のバチが当たる。とか、
脅し文句は、もう要りません。

死んだら、宇宙の魂と一体になるだけですから。
死後の地獄は、私にとっては、存在しません。
むしろ、今、生きている現在の苦しみが問題。

生活が、経済的に問題ないとしても、生き地獄の苦しみはあるでしょう。
そのような、苦しみにあるからと言っても、
楽しそうに、何の苦しみもなく過ごしている人を見て、
神に目覚めて天国に行くことはできない。とか、
悪い事をして、自分だけいい思いをしている人を見て、
そんな人は、死後、地獄に落ちる。とか、
そんな考えは、妬みを静める効果はあったとしても、
神様の慈悲を信ずる心から、どんどん離れていくばかりです。

親鸞聖人は、師匠の法然上人に騙されて、たとえ地獄に落ちても悔いは無い。
と、言いきっています。(参考書209)
私が思うに、親鸞上人にとって、このとき既に、
地獄の存在自体、無意味で、心配の種ではなくなっていたのです。
何の本で読んだかは、忘れてしまいましたが、
お釈迦様が、弟子と一緒に瞑想していたとき、
ずるい事を繰り返し、他人を苦しめながら、大金持ちになった人が死んで、
魂が中空に漂っていくのを、弟子が感じ取り、
その弟子が、彼はきっと地獄に行くのでしょうねとお釈迦様に尋ねたところ、
お釈迦様は、そんな事を考えてはいけないと、弟子をたしなめたそうです。
お釈迦様にとっても、死後の地獄は、無意味なものだったに違いありません。

浄土信仰が隆盛したのは、皮肉なことに、地獄が後押ししています。
その時代の人々にとって、死後の世界が、真に迫る問題であり、
死後、地獄に落ちる事がよほど恐ろしく、
その避難所として、簡単に極楽浄土に行けるならと、浄土教にすがったのでしょう。
しかし、浄土真宗の開祖と言われる親鸞聖人にとっては、地獄は不要だったのです。
不要なものに、いつまでも、関わり合うなと言いたかったのでしょうが、
その時代、地獄は常識だったので、そんな非常識は言えなかったのでしょう。
お釈迦様にとっても、全く同じでしょう。

科学知識が発達した現代でも、地獄で脅さなければ信者をつなぎ止められない。
そんな宗教家が、まだ生き残っているようです。
何と情けない。

修正:2009年8月11日





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