・・・・・魂のルネッサンス 心と魂の解放 ・・・・・
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教祖の取扱説明書


教祖を「神」のように、祭り上げ、絶対化してしまうのは、愚かなことです。
教祖の説かれた事も、その人、その時代の
認識レベルという制約から逃れることはできません。
教祖もまた、人間であり、全知全能の神ではないのですから。

例えば、私も尊敬する松下幸之助氏(故人)は、よく「経営の神様」と呼ばれますが、
「神様」はナンセンスです。
氏もまた、生きてこられた時代の制約を受け、
環境や経験、学んだ知識という限界をお持ちです。

そういった事を無視し、教祖の発言や著作、伝聞を一字一句、金科玉条のように扱い、
現状に当てはめようとしたのでは、
かえって、言わんとされた本意を汲み取り損ねてしまいます。

社会の安定にも寄与するようになって、今も伝えられ、世界的に広まっている宗教は、
教祖の限界を上手に乗り越えています。

イスラム教は、経典を、その時代、その時代の宗教指導者が、
適宜、経典を解釈し直して、信者に教えていると聞きます。

キリスト教も、ユダヤ教も、同様だと聞きます。

仏教では、「如是我聞(私は、このように聞いた。私の心には、このように響いた。)」
と言う書き出しの経典が、次から次へと産み出されてきました。
これを『お釈迦様が直接言われたものでない。』とか、
『伝え聞いたものではないはずだ。』と、
切り捨てたのでは、生きた教えにはならなかったでしょう。
お釈迦様は、亡くなる前に、自燈明(各自で自分の道を照らす)を説かれています。

日本の神道に至っては、経典すらなく、
精神性のみが不立文字として受け継がれてきました。
幾つかの物語や儀式、聖地などによって、精神性の背景を伝えているだけです。

宗教が世の中を混乱させるときは、
大抵が、文字化された経典を金科玉条のように扱う原理主義が台頭した時です。

神も宗教も認めるものですが、金科玉条のように、経典を扱うのは間違いであり、
大変危険なことだと思います。
常に、その時々に応じ、適宜解釈しなければ、活きた教えとはならず、
また、その経典を超える教えが、いつか必要になっても不思議ではありません。
ちょうど、ニュートン力学を超えた、相対性理論や量子力学が現れ、
それすら、そのうち新しい理論の一部でしかなくなるのと同じことです。


参考書
・まえがきで、修行途上で完璧なものでないと、ことわっているものとして
 松下幸之助著 人生心得帳 2001年 PHP文庫
・本意を考えると、現状では舌足らずの部分を感ずるものとして
 松下幸之助著 商売心得帳 2001年 PHP文庫
・経典解釈の一例として
 親鸞仏教センター翻訳 現代語 歎異抄 いま、親鸞に聞く 2008年 朝日新聞出版


【比喩の教えと根本の教え】 ・・・・・・・・・・・・・・・・(追記:2014年4月29日)

第1章から第7章で、私が求め、少しずつ見つけては、自分で身に付けたり、
あるいは、皆さんにもお伝えしようとしているのは、
根本の教えに、少しでも近づくためです。

根本の教えは、理解し難く、決して分かり易いものではありません。
具体的に説明しようとすると、とても難儀します。

毎日、日常的に見慣れている事、これにも、法則が働いていますが、
当り前になっているから、何がどうなりそうか大体予想できます。
いわゆる経験則です。

経験則は、自分では充分に分かるのですが、人様に説明しようとすると、上手くできず、
「大体そんなモノだ」とか「分かるでしょう」とか言って暗黙知のように扱い、説明を避ける。
説明が必要なときは、たとえ話や迷信めいたコジツケを持ち出すかもしれません。
擬人化、無理矢理な仮説、作り話など、比喩を用いて、説明を楽にする為のコジツケ論法です。
「比喩の教え」と言っても良く、この説明方法は、適用できる範囲が限られます。

物理法則の説明と比較しても良いでしょう。
日常見慣れている事は、経験則が身についています。
たとえば、手に取ったリンゴから、手を離せば下に落ちる。
普通は、当り前なので、説明しようとも思いません。

ところが、大きいリンゴと小さいリンゴ、どちらが速く地面に落ちるか尋ねられたら、
経験則やコジツケ論法では、間違った結果を予想するかもしれません。
適用範囲を超えてしまうからです。

これを正確に説明しようとしたら、ニュートン力学の知識が必要になります。
物理の授業で習う万有引力の理論です。

ところが、日常的には滅多に起こらない事や、誤差程度として見過ごしている事、
これを説明しようとしたら、この理論でも足りません。
適用範囲を超えてしまうからです。

原子炉の中で起きている事とか、宇宙の中を大規模に観測して判明する事などは、
ニュートン力学では説明できず、相対性理論や量子力学といった、
大学の専門課程に進まないと習わないような理論が必要になります。
更に最先端の科学は、相対性理論や量子力学でも説明できない事を解明しようとしています。
最先端になるほど、より深く掘り下げた理論になります。

単なる経験則を超え、比喩の教えも超えた理論は、
理解するのも説明するのも容易ではありません。
より深く掘り下げるほど、難しくなります。

でも、一方では、より多くの場面や現象を理解したり、説明できるようになり、
適用できる範囲が格段に広がり、長い年月に渡り通用する理論になります。
こうした、深く掘り下げ広く通用する教えが、「根本の教え」に相当します。


【宗教と哲学】

人生との向き合い方、世間との向き合い方など、人としての生き方の問題は、
宗教や哲学に関する事が多くなります。

根本の教えに近づこうとすれば、
心理学や人類進化、経済学、社会学、理論物理学などの知識まで必要になるでしょう。
理解するのも説明するのも容易ではありません。

比喩の教えで満足できるなら、理解するのも説明するのも容易です。
しかし、迷信の類が混ざってくるのは避けられません。

狭い範囲で使うには、立派に通用するのでしょうが、
何事にも教えを当てはめ判断しようとすると、あちこちで問題を引き起こします。
知らないうちに、適用範囲を超えてしまうからです。

どこまで通用するのか、適用範囲の判断が難しいのは、
教祖に相当するような人の経験則や自己流の解釈だからです。
教祖が生きている間は、教祖が適用範囲の限度を指し示したり、
適用範囲外の事については、新たな教えを伝えたりできるでしょう。

しかし、教祖の死後には、もうできません。
比喩を多用する教えは、教祖に相当する人、一代限りの教えです。
死後もずっと、その教えを厳格に守ろうとすれば、深刻な停滞を招きかねません。

教祖の死を乗り越え、社会の活性化にも寄与しつつ、生き残る宗教や哲学は、
比喩を極力少なくするか、時代に合わせて比喩を改訂するか、解釈を変えて行く。
そうゆう事を行ってきた教えだと推察します。
千年、2千年と生き残り、続いてきた世界的宗教や哲学です。


【比喩の魅力】

比喩を多用しても、間違いを犯していない、
比喩を多用しても、活き活きとして、魅力にあふれている。
そうした教えも、世の中には沢山あります。

それは、教祖に相当する人や、新しい解釈を加えて活力を与える中興の祖的な人が、
まだ生きていて、今の時代を捉えているからです。

だから、活力にあふれ、輝いているように感じられます。
だから、比喩を多用する教えだからと言っても、私は見下したりしません。
むしろ、その教えに共感さえします。
その教えの基礎部分には、私が探してきた理論と共通する点が沢山あります。

その教えを信じている方々にお伝え出来れば良いと思うのは、
教祖が亡くなられた後、何に頼るかです。
その教えは、時が経つほど、社会とのズレが生まれてきます。
教祖の教えの一字一句に拘っていると社会に適応できなくなっていきます。
教祖が生きていれば、ズレを常に修正して行けるのですが、もう出来ません。
今から少しずつでも、教祖の教えの基礎部分を掘り下げて欲しいと思います。

その掘り下げに、私の探してきた理論が少しでも役立てば幸いです。






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