・・・・・魂のルネッサンス 心と魂の解放 ・・・・・
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古事記の解釈・編纂方針と背景


【年代の推測】

神武東征の時期が、弥生時代初期に当たる事を問題にする方もいらっしゃるようですが、
従来からの建て前の通りで、ほぼ問題ないと、私は推察します。
中巻の最初の方に書かれている情景(伝承)を、弥生時代初期のものとして解釈すると、
まことに自然に読めるからです。

●上巻(神代)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・       〜BC676年頃
●中巻(神武東征〜応神天皇)・・・・・・BC676年〜AD310年(神武天皇即位BC660年)
●下巻(仁徳天皇〜推古天皇)・・・・・・AD310年〜AD628年

古事記』『日本書紀』に記述される在位期間を順番に追って西暦に置き換えると、
上巻と中巻の節目になる、神武天皇の即位年は、BC660年となるというのが建て前です。
しかし、この年代設定に、異議を唱える専門家もいます。

干支が一巡する60年を1元とし、21元を1蔀として算出される1260年に、
王朝交代などの国家的革命が行われるとする(辛酉革命説)に習い、
古事記編纂者が神武天皇の即位日を推古天皇即位から1260年遡った年になるよう、
創作したとするもの。(明治時代の歴史学者、那珂通世が唱えた

少しは、ズレがあったとしても、私は、あえて冒頭に記載した年代を採用したいと思います。

最終的な決め手は、中巻に記述(伝承)されている事跡に関係する遺跡を発掘し、
科学的な検証を行う事です。
これを阻むのは、一つには、宮内庁管理の古墳の発掘が許可されない事もあります。
また、奈良盆地での発掘が、大規模な遺構に目を奪われて過ぎている事もあります。
私の推測に近ければ、神武天皇を始めとする初期の政権には、小さな遺構が相応しいです。


【創作の程度を推測】

●上巻(神代)

皇室と各部族の祖先の伝承を、縦横無尽につなぎ合わせ、一つの物語にしたのでしょう。
ときには、時間の順序も入れ違いになる事があっても不思議ではないし、
日本列島で起きた事でなく、海外で起きた伝承を、祖先が持ち込んでいるかもしれません。
海外の書物を参考に、カッコよく脚色したり、真似た部分があっても、不思議ではありません。
伝承に示唆される事跡が、どれだけ遡っているかも、編纂者には判断できなかったでしょう。

●中巻(神武東征〜応神天皇)

編纂時期から数えると、1400年程前の物語から始まり、応神天皇でさえ400年程前。
世間に漏れ伝わっている事実もあるでしょうが、だいぶ薄れているはずであり、
当事者の子孫が了解すれば、政権に有利なように改変することは、難しくはなかったはず。
日本列島内に子孫がいないか、見る影もなく衰弱していれば、大幅な改変もできたはずです。

●下巻(仁徳天皇〜推古天皇)

大幅な改変はできないものの、時の政権にとって都合の良い解釈はできたはずです。


【いま改めて解釈し直す意味】

幕末から現在までの、近代の歩みを概観するだけでも、
皇室は、和解の心根と沈着冷静さと進取の精神を併せ持たれ、
日本の危急存亡の時には吾身をも顧みず、本当に良くやって下さったと思います。

このようなお役目を果たされる方は、世界広しと言えども、他に見つける事は難しいです。
それは、損得ではなく、人々の為、守り育てられてきた日本の魂の為にと、
歴代天皇が、心を砕かれてきたことを代々重く受け止め、
営々と引き継がれてきたからに相違ありません。

これは、天武天皇はじめ当時の政権が、古事記編纂の詔勅を発せられたとき、
政権を担う者が心得るべき理想として、徹底しようとされた事だったのではないでしょうか。

百済を支援した大和政権軍が、西暦663年白村江の戦いで唐・新羅連合軍に大敗した後、
668年には高句麗も滅ぼされ、新羅は朝鮮半島を統一し、唐との対立も冊封外交で解消、
以後の東アジアは、唐の冊封外交の下に置かれることになった事、
西暦672年の壬申の乱という、兄弟で国を二分して争った反省、
等々を深くお考えになり、融和と安定的発展を願い、

◆ 和解の心根
◆ 沈着冷静さ
◆ 進取の精神

この3つの心を大切にするよう、古事記の物語に込められたのではないでしょうか。
皇室がお守りになっている三種の神器、すなわち、勾玉草薙剣も、
この3つを象徴するものなのではないでしょうか。
この3つは、縄文時代から受け継がれてきた、日本の心根そのものでもあります。
                                 ・・・・・(2015年4月12日、以下2行追記)
特に、勾玉は、縄文時代の遺跡から出土しており、作り始められたのが縄文時代です。
この事は、縄文時代の精神性が、皇室の中心に受け継がれている何よりの証拠です。

皇室を中核に演出した諸部族融和を、未来に渡って守ろうとする意識を行き渡せるために、
古事記上巻(神代)編纂にあたっては、次の3つを基本方針にされたものと考えます。
@.皇室の祖先神(皇祖神)を最高位に描く。
A.皇室の下に集まった諸部族の祖先神を、皇祖神の協力神ないし服属神として描き、
  諸部族に伝承された物語を、一つの物語の中に集約する。
B.和解の心根、沈着冷静さ、進取の精神で、危機を乗り切ってきた物語として仕上げる。

以上の方針を貫くために、思い切った脚色も行い、辻褄合わせが行われたのでしょう。

可能だったのは、天皇を中心に豪族がようやくまとまり、反対者を抑え込めたからでしょう。
更には、縄文後期に祖先の遺骨を改葬・合葬した、環状列石の墓にも通じる考え方であり、
各豪族も受け入れる下地になったものと推察します。
反対したり異論が出てきそうになったかもしれませんが、渋々でも了解してもらえるよう、
直したり、根回ししたり、時間をかけて編纂したのではないでしょうか。

この古事記の編纂があったからこそ、皇室は、各豪族とは別格扱いになり、
たとえ、実質的な力を失ったときでも、権威だけは失うことなく存続できたのでしょう。

今はもう、編纂当時の脚色を拭い去り、事実を明かしても良い時ではないでしょうか。
いや、むしろ、その時がきたのではないでしょうか。

近代化において発揮された皇室の役割、
近代化しても日本の魂は失われないという心の拠り所としての存在感、
国が危急存亡の淵に立っても、最後の拠り所として、沈着冷静であり続けたという実績、
一部勢力が、権威に便乗して悪用すると、安全装置と言えども効き目が無くなるという限界、
三種の神器にも象徴される3つの心を大切にしない限り、日本に将来性はないという予感、

この存在感と実績と限界と予感を、多くの国民が理解できるようになった今だからこそ、
事実を明らかにしても大丈夫であり、むしろ明らかにしないままでは、
ずるずると大戦争に嵌り込んだように、間違いを繰り返しかねない危うさが、拭いきれません。


【改変・脚色箇所の推測】
●上巻(神代)

中巻の始めである東征を行われた、神武天皇(諡号:神倭伊波礼毘古命)の誕生で、
上巻が終わりますので、この神武東征の出来事をどう解釈するかで、大きく変わります。
結論から言えば、私は、この東征を、奈良盆地における水田開拓団の入植と推測します。

縄文時代後期から、原始的農耕が既に広まっており、
水はけの良い原始的農耕適地では、既に縄張りが決まっていたはずです。
そこでは、雑穀類や陸穂などが栽培されていたはずです。

水稲を栽培するには、原始的農耕適地に新たに灌漑用水を引いてくる方法と、
従来は放置されていた湿地に、排水と灌漑を引いてくる方法と、
2通りの方法により開拓し、水稲栽培を始めたようです。
この農業土木技術はBC945〜BC915年頃の北部九州に、広範囲に導入されました。
   ・・・・・・(参考書@)
他者の縄張りになっていた原始農耕適地を奪おうとすれば、死に物狂いの戦いです。
排水可能な未利用の湿地も、当初は沢山あったでしょうが、次第に減っていきますので、
戦いよりは、新たな湿地を求め、日本列島各地に足を延ばすことになったものと、想像します。

既にBC600年頃には、瀬戸内海沿岸の開拓はほぼ終わり、大阪に達していました。
奈良盆地の湿地帯は、内陸であった為、開拓は遅くなり、
奈良での水田稲作が広がるのは、BC500年頃と推定されています。(参考書@)

狩猟採集と漁労の場合には、耕作地ほど縄張りは厳しくなかったはずです。
縄文時代同様、咎めだてされず、比較的自由に移動や短期滞在が可能だったはずです。
漁労と狩猟採集をしながら海岸伝いを集団で移動し、水稲栽培に適した湿地を探す旅が、
縄文晩期から弥生初頭行われ、少しずつ水稲耕作地が北上したものと、推察します。
だだし、この拡大には、火山灰地など、栽培に不向きな土地は除かれたと推察します。

また、縄文時代には未利用地だった湿地の耕作方法が知れ渡ると、
原始的農耕を始めていた各地の縄文人も、次第にその農耕方法を学んでいったはずです。

以下、ここから先は、私の推理です。
従来の定説とは違うかもしれませんが、一つの仮説として、参考にして下さい。

神武東征の物語は、この奈良盆地開拓団の旅を、カッコよく脚色したものではないでしょうか。
古墳時代が始まるずっと以前、卑弥呼の時代より更に前の時代の物語だと推察します。

そう考えると、古事記上巻の物語は、縄文時代を中心に、弥生初頭までの物語となります。
もし、もっと遅い年代の物語であれば、奈良盆地に入ってから、耕作地を地元民と奪い合う、
激しい戦闘が続く物語になったはずですが、そうはならず、大阪平野の豪族と争っています。
紀の国から奈良盆地に入るまでに戦った相手は、縄文人のような印象を受けます。

古事記の編纂は、弥生時代が始まってから(早い所では)1600年以上を経過しており、
一見、縄文時代とは、無関係な記述と思われてしまいそうです。
神話に出る部族の祖先は、縄文時代や弥生時代初頭までに渡来していたと推察します。
弥生時代の幕開けを担った部族が、有力豪族になっと考えても不思議ではないからです。
恐らく、進取の気性に溢れた部族だったものと推察します。

政治の舞台に現れた有力豪族に伝わる伝承を中心に、古事記が編纂されたと考えると、
古事記の上巻は、縄文時代以前から弥生初頭までの日本列島内外の伝承が集められ、
編纂当時に朝廷側に付いていた各豪族の結束を図るために、編集されたものと推察します。
特に、進取の気性に溢れた、日本人の起源・・Eの種族に、関係の深い伝承が多くなっても、
不自然ではないと考えます。


●中巻(神武東征〜応神天皇)

一代毎に見ていくと、異様に長命になってしまう天皇が、一時期に集中しています。
BC660年に即位したとされる神武天皇から、AD399年に退位したとされる仁徳天皇まで、
16代、1059年となり、平均在位が66年と、異様に長くなります。
BC660年が、多少ずれていたとしても、記録から消されたか、忘れ去られた天皇が、
10〜20人程度いてもおかしくありません。
神武天皇が、奈良盆地開拓村の村長程度だったと理解すば、これも、無理のない事です。
(初期は、縄文の風習を引継ぎ、血統を条件とせず、他家出身の村長もいたかもしれません。
 その村長は、天皇家の伝承に残らなくても不自然ではありません。・・・2011年3月28日追記)

末子相続か、あるいはそれに近かったとすれば、在位期間が長くなったとも考えられますが、
それでも、66年間の平均在位期間は不自然です。
妻が何人かいて、老いても、子づくりをしていたとして、
例えば、死亡時に、相続を受けた子が平均10歳という計算なら、平均死亡年齢は76歳です。
同様に、子が平均20歳なら、平均死亡年齢は86歳です。
同様に、子が平均30歳なら、平均死亡年齢は96歳です。
部族を率いていける実力が備わるには、若くても30歳近くにならないと無理でしょう。
当時の状況で部族長が何歳以上なら、何代も続くような安定した体制を維持できたのでしょう?
幼い部族長では、補佐役が実権を握り、部族を統率する必要があります。
政治体制がシッカリ出来上がっているか、あるいは、長子が補佐役に止まる必要があります。
しかし、それ程の政治体制が出来上がったのは、ずっと後世のこと。
そして、その時代には、実権を握った者の都合で容易に代替わりが起きていました。
また、先代亡き後、長子が実権を握りながら補佐役で満足できたかと言えば、大いに疑問。
若くても、30歳近くになった者が相続していたと考える方が、自然でしょう。
この場合、親子間で部族長が引き継がれるには、平均90歳以上の長命でなければならず、
長寿の家系で、健康的な生活ができたとしても、この時代に何代も続くとは考え難いです。
むしろ、部族長の引継ぎは、必ずしも、親子間ではなかったと考える方が自然であり、
最有力の家系出身者に限定して名前を記録に残し、歴代天皇と規定したものと考えます。
古事記編纂当時は、これを正式に認めると皇室の権威が傷つく恐れがあったのでしょう。
しかし、現代では、これを認めたとしても、皇室の権威が損なわれることはありません。
皇室を中心とした文化が、専制的ではなく、融和的に始まった可能性を示唆しており、
むしろ、誇りにしても良い位だと思います。      ・・・・・・・この段落(2014年3月11日追記)

中巻は、大和政権が奈良盆地に辿り着き、耕地を広げ、力を蓄えていく時期の物語ですが、
この時代の勢力は、最初は、奈良盆地内の村落程度だったと推察します。

中巻の年代、部族対立を解消する過程で、大和に同盟や服属した相手に対しては、
神代からの付き合いがあるかのように、上巻の中にも描いた可能性があると推察します。
出雲政権については、更に徹底し、中巻の年代で争いに破れて滅んだはずですが、
上巻の時代の物語として、書き換えています。

中巻で描かれた敵対部族は、対立したまま、滅ぼさざるを得なかった相手と、
何度も反旗を翻し、油断できない相手として見定めた部族であると推察します。

新羅も、油断できない相手として、描いておきたかったのではないでしょうか。
この年代の問題として、良くあげられるのは、神功皇后の新羅遠征です。
AD663年大和政権と百済が大敗した怨み深い新羅を、昔、平伏させた事があるかのように、
描いておきたかったのではないでしょうか。

その為に利用した事跡が、魏志倭人伝の卑弥呼の使節だったものと推察します。
全く根も葉もない、架空の物語は、中巻では書けないので、
卑弥呼が朝鮮を経由して朝貢した事を、皇后による朝鮮征伐に書き換えたものと推察します。

魏志倭人伝などに記載されている程の出来事を、古事記では、触れていません。
AD239年の卑弥呼の使節も、AD248年の台与も、また、AD107年の倭国王帥升もです。
卑弥呼の部族が、有力豪族として生き残っていれば、異論が出たはずです。
よほど、朝廷に協力的な豪族として生き残っていたか、逆に、衰弱していたかでしょう。

すなわち、卑弥呼の部族は、大和政権そのものか、または親密にしていた部族か、
 (例えば、後の代に、卑弥呼の部族の子孫が、皇室に嫁入りや婿入りしていたとか)
 (あるいは、神武東征以前の祖先は、卑弥呼も皇室も同じだったとか)
あるいは、500年経って古事記編纂当時には、見る影も無く衰弱していた部族であるか、
何れかです。

少しずつ力を蓄えていったものの、古墳時代前期半ば応神天皇(AD270〜310年)になって、
大和政権は、西日本の半分程を治められる国家連合になったものと推察します。
従って、卑弥呼の部族は、大和政権とは別物であり、
この時期、西日本には、大和の国と卑弥呼がいた倭国が併存していたと推察します。


●下巻(仁徳天皇〜推古天皇)

もう一つ、掲載してない大きな出来事と言えば、
AD399〜404年に朝鮮半島で起きた、百済と倭の連合軍と新羅及び高句麗との戦闘です。
仁徳天皇から履中天皇にかけての事で、古事記下巻に載っていても良いはずです。
結局、倭軍は朝鮮半島に勢力は残せたものの、戦いでは敗れているので、
カッコ悪くて、古事記に記載しなかったと解釈する事もできますが、
この倭国も、前述のように、大和の国とは別物だったと解釈した方が自然です。
では、倭国とは何か、次のような説があります。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%80%AD%E5%9B%BD
また、外洋を小舟で自在に往来していた海洋民族で、東シナ海から黄海の大陸・半島・列島の
各沿岸を拠点に散らばっていた諸部族を、と総称していたとの説もあります。(参考書AB)

朝鮮半島に進出して倭と呼ばれた諸国は、5世紀には、勢力を弱らせ、
6世紀には、大和を中心とする連合国家の勢力下に入ったのではないでしょうか。
実際に、大和の国が、朝鮮半島に勢力を伸ばしたのは、
6世紀欽明天皇の時代からでは?

AD552年、百済の聖明王が、欽明天皇に仏像を贈ったとの記録が、日本書紀にあります。
大和朝廷内に、仏教支持派が出てきた頃なので、他の史実とも整合します。


【弥生時代の2つの社会体制】

倭の成員であった北部九州の国々は、一時期、互いに交戦して敗者を奴隷にしたり、*
勢力下の海上を自在に往来しながら、奴隷狩りをして労働者を集めては、
新たな土地に、奴隷を連行し、入植地(低地型の環濠集落)を開いていったと推察します。
恐らく、このような方法により、朝鮮半島からも大勢の人々が渡来した可能性も。*
その為、平均的弥生人の骨格や顔立ちが、縄文人から随分変化したのかもしれません。*
(「*」印行2011年11月12日修正)
北部九州で水田稲作が始まったBC900年代と、神武東征が行われたBC600年代、
それぞれ、大陸での政治状況と全く無関係とは言えないでしょう。
BC900年代は、大陸側は周王朝の時代、東周になる前の「西周」の時代でした。
点在する都市国家同士が服属関係を結び、黄河から揚子江以北に展開していました。

西周時代の都市国家が、海を渡ってまで植民地を開いたとは、考えにくい気がします。
楽に資材加工できる道具(鉄器)があれば、技術者や種だけ渡ってくれば、開拓は十分可能。
渡海が得意な海洋民族が、インド系鉄器技術も含めて運んできた可能性もあります。
   ・・・・・・(参考書FA)
しかし、時代が進み、遷都して東周に衰微するBC771年以降、状況は変わってきます。
大陸側は春秋時代となり、敗者や避難者が、日本列島へ渡ってきた可能性は高まります。
争いが激しさを増してくるからです。
北部九州から瀬戸内海には、このような亡命者が、武力で開いた国もできたかもしれません。
神武東征が起きたBC600年代は、そのような時期に当たっています。
BC403年以降、大陸側が戦国時代に入ると、この可能性は益々高まったでしょう。

大和への水田開拓団の入植は、漁労も狩猟採集も農耕も戦闘もできる少人数の男達が、
奴隷を連れずに遠征し、縄文社会の真中の湿原地帯で、自分達だけで開拓を始め、
周囲の縄文集団と協力関係を築きながら、子孫を増やし、耕地を広げていったと推察します。

入植方法の違いが、その後、人と人との結びつき方や国造りの方法で、大きな違いを生み、
「縄文の心と魂」で解説した対立解消の3方法の内で、何を基本にしたか、
北部九州の国々と、大和の国々とは、全然違っていったものと推察します。

北部九州では、独裁・専制を基本とし、服属を併用して国を大きくし、
強制的労働を基本にした奴隷管理の農耕になったものと推察します。(参考書E)

一方、大和では、和解を基本とし、服属を次善の方法とし、独裁や専制は出来ず、
縄文時代の環状集落の共同作業と同様に、協調的労働を基本にして、
緩やかに管理する社会になったものと推察します。

二つを比較すると、独裁専制型の方が最初の内は急拡大し、勢力を広げましたが、
結局、和解型の方が、始めはゆっくりでも、持続的拡大を続けることができ、
最後には、独裁専制型が衰滅し、和解型に吸収されてしまいました。

このような社会の変化は、日本では、歴史上何度も繰り返されてきた、社会法則ですが、
古今東西、普遍的に成り立つ法則には、未だなっていないようです。
独裁専制型が最後に覇権を握り、便乗する者が得をし、逆らう者は滅ぶ、
この方が社会法則だと思い、一般常識になっている国々もあるでしょう。

和解型の方が持続的発展を続け、最後には全て覆う事を、社会法則に迄できるのは、
人と人とが和解で結びつく事を、ほとんどの人が自然に理解する社会だけ、かもしれません。

とは言え、この和解型が、万能と言う事でもありません。
第二次世界大戦にズルズルと、嵌り込んでいったのが、この和解型の大日本帝国です。
決して、軍部が独裁していた訳でもないのに、誰も貧乏籤を引きたがらず、
有効な手が打てませんでした。

今、社会保障と税制の論議など、抜本改革の必要な事が、どんどん溜まってきていますが、
無責任にマイナス面をあげつらって騒ぎ立てる勢力に流されるまま、
敢えて火中の栗を拾う道筋が描けずに、ズルズルと、事態が悪化し続いています。
和解型の「日本の心根」を十分活かす為の何かが欠けているのかもしれません。


参考URL
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参考書
@.弥生時代はどう変わるか 広瀬和雄編、禰宜田佳男・小林青樹・他著 2007年 学生社
A.海を渡ったモンゴロイド 後藤明著 2003年 講談社
B.海から見た日本人 後藤明著 2010年 講談社
C.古事記(上) 次田真幸全訳注 1977、‘80、’84年 講談社学術文庫
D.読み解き古事記 坂田安弘著 2009年 産経新聞社
E.王権誕生 寺沢薫著 2008年(原本2000年) 講談社学術文庫
F.日本語の源流を求めて 大野晋著 2007年 岩波新書





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