・・・・・魂のルネッサンス 心と魂の解放 ・・・・・
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古事記の解釈・神代


【推理の前提条件】

これから先は、一つひとつの部族と皇室との関連を推理していきます。
基本的には縄文時代の事であり、神話と発掘物を比較し、部分的には年代も推理しますが、
発掘できる考古学的証拠との付き合わせが難しく、多くは神話を材料に、独自に推理します。

縄文の魂が現代につながっている事は、以前のページにも記述した通りですが、
古事記解釈の為の前提条件を、次の通り、改めて整理します。

縄文時代の日本列島には、多方面から多様な種族が到来した。(「日本人の起源、・・」参照)
縄文早期末、鬼界カルデラの超巨大噴火は、大きな影響を残し、言い伝えられていた。
縄文晩期には原始的農耕が定着し、排水の良い農耕適地は、既に縄張りが決まっていた。

神武天皇率いる開拓者集団は、男だけの少人数で、戦士や漁師、猟師も兼ねていた。
奈良盆地はまだ縄文晩期の湿原地帯で、周りの縄文人集団と協力して、水田を開拓した。
大和王権が西日本の大部分まで勢力を伸ばすのは、6世紀の頃。これ以前の西日本は、
 大和の国々の勢力と、倭国と呼ばれた九州北部の国々の勢力で、大きく二分されていた。

兄弟間で争いになる説話では、弟に正義があるように脚色する。
 (何故なら、壬申の乱で、兄を討った天武天皇の命で始められた編纂であるから。)
万世一系の皇室という原則を貫く為であれば、説話を大幅に脚色したり、創作もおこなう。
皇室の祖先ゆかりの地が、実際には廃れていれば、これを神々しく脚色して書き換える。
使われている説話は、事実の伝承や、海外の説話を基に、都合よく編纂、脚色された。

古代日本列島では、子ができると、通常は一夫一婦の家族になるが、有力者の娘は違う。
 娘は、自由恋愛で子ができ、相手に正妻がいたり、相手の力がなければ、親許に留まった。
 誰が父親であるか本当の事を知っているのは、子を産んだ娘だけであった。

以上を基に、私なりの推理を進めてまいります。
考古学的物証で検証することは難しく、学界の定説でもないことを、予めご承知下さい。
真偽の程は、お読みになる皆様のご判断に委ね、私は、むしろ大胆な推理に努めます。


【海幸彦と山幸彦】

弟が兄を屈服させるのも正当である事の先例にする為に、脚色した神話です。
下敷きとして使った説話の一つは、オーストロネシア語地域に広く伝わる釣針喪失譚であり、
元々の説話では、兄と弟の区別はなかったかもしれません。
弟の方に正義があるように脚色して、弟を勝たせる物語にしたかったのです。

兄弟に、海と山の名をつけて対比させたのにも、理由がありました。
山側の部族が海側の部族を支配している現実を正当化する為であり、
このときの山側の部族は皇室の祖先、海側の部族はインドネシア系海人集団の隼人です。
隼人族は、皇室に使われる側にあり、宮殿警護を担ったので、地位の序列と一致します。

釣針喪失譚を日本列島に持ち込んだのは、この隼人族であり、
古い有力豪族の一つであったので、この説話が古事記に取り入れらました。
ここまでは、定説です。(参考書@)

他にも、海人集団らしき部族が登場します。
説話の中では、塩稚神(しおつちのかみ)と綿津見神(わたつみのかみ)です。
この部族も、海に関係していますが、隼人部族と一括りにすると、敗者になり、不都合。*

隼人以上の地位の豪族だった為、功績のある協力者として描く必要があり、*
そこで、付け加えられ、利用されたのが、竜宮城神話(海神宮の神話)です。*

・・・・・・(「*」印行、2013年2月7〜10日修正)

釣り針を取り戻して、名誉挽回する方法は、海神宮に行く方法以外でも良かったはず。*
この部族の出自(塩稚・綿津見神)を、竜宮城(海神宮)への功労者にし、名誉を与えました。*
海神宮神話は、元々は、釣針喪失譚とは別の説話だったと推察します。*
釣針喪失譚、「浦島太郎伝説」(竜宮城神話)、豊玉姫の恋愛物語、初代天皇の誕生物語、*
これら4つを連結し、政権側に有利になるよう脚色したものと、推察します。*

ただし、綿津見神は、天皇の外祖父であっても、皇室から遠ざけておく為に、*
海神宮から来た姫で、初代天皇になる赤子を産む母として、はるばる来ていながら、*
その母親は、去ってしまい、代わりに妹が乳母としてやってきた事にしたのです。

綿津見神一族を皇室の一員ではなく、あくまで、協力者としての地位に止めるようにしました。*
この為に、古事記の編纂者が、物語をつなぎ合わせたと推察します。*

しかし、事実は不明です。*
むしろ、皇室の遠い祖先、父方を辿ると、海神宮に行き着く可能性すら予感します。*
ただし、あまりにも遠く、天の岩戸頃かこの以前であり、繋がりが薄れていた為、*
古事記の中では、残り香のような予感だけ残したのではないでしょうか?*

3つの疑問が残ります。
この場合、高天原は、どこにあったか?
竜宮城(海神宮)は、どこにあったか?*
浦島太郎は、いつ出発し、いつ戻ったのか?
3つの疑問の答えは、鬼界カルデラの超巨大噴火がヒントになります。


【鬼界カルデラの超巨大噴火】

高天原の場所の手掛かりとして重要なのは、天の岩屋戸神話であり、
海神宮の手掛かりとして重要なのは、国生み神話です。*
浦島太郎伝説の手掛かりとして重要なのは、黒潮の激流です。
この3つの説話を結び付ける考古学的事実が、鬼界カルデラの超巨大噴火です。
九州南部から琉球列島に、甚大な被害を及ぼしています。

●オノゴロ島神話の下敷きとして

神話の中では、国産みの為に、日本列島近海にやってきた二神が、
前線基地として最初に創ったのが、オノゴロ島となっていますが、
実際の前線基地になったのは、オキナワ本島だったと、私は推察します。

黒潮が激しくなる前、1万2千年前には、沖縄と九州は行き来していました。
丸木船または樹皮船の建造用の石器(円筒形磨製石斧)の出土から推測できます。
その頃、九州と沖縄を行き来していた部族が、沖縄で縄文草創期の文化を保持していました。
1万年前を過ぎた頃から、海面が上昇して黒潮の流れが激しくなり、往来が難しくなりました。*
黒潮の急流を横切る航路を進む技術をまだ持っていなかったからです。*
更に海面上昇が進み、沖縄で栄えていた海辺の集落(竜宮城)は、海面下に沈みました。*

そして、7300年前、鬼界カルデラの超巨大爆発の噴煙を見て、
過去の伝承と重ね合わせ、沖縄本島から九州へ、命がけの渡海を目指します。
この経緯は、「日本人の起源、・・」に、記述した通りです。
7300年も前の出来事が、伝承されるのかと疑問に思われるかも知れませんが、
1万年の間、言語が変化しても伝えることのできる、伝承技術があります。(参考書A)

沖縄から海を渡ってきた部族が、噴煙立ち上る鬼界カルデラのあたりに見たのは、
海面には島が無く、軽石や火山灰が漂っているだけの状態だったはず。
これを見て、天地の初め、火山島が出来る時の有り様を推察し、
『国土がまだ若くて固まらず、水に浮いている脂のような状態で、クラゲのように漂っている』
と表現したのでしょう。

上を見上げれば、
噴煙が、水平線の彼方にまで延び、鬼界カルデラから噴煙が立ち上っていました。
このありさまを、天地の間にかかった梯子から、矛をさしおろして海面をかき回すと描写し、
オノゴロ島を造る説話に書き換えたものと推察します。

初めは、沖縄本島から葦船で渡ろうとして、
黒潮に流されてしまい、行方不明になったかもしれません。
黒潮の流れを渡る危険に脅え、渡海の計画が、淡くも消えそうになったかもしれません。

この出来事についての伝承を基に、
オノゴロ島で不具の子として生まれ、葦の船に乗せて流し棄てた流された水蛭子説話や
産み損じの架空の島として「淡島」の説話が創られたものと推察します。

●二神の国産み神話の下敷きとして

そして、もう一度計画を練り直し、船足の速い「サバニ」のような船で再度決行し、
黒潮や対馬海流に流されながら、辿り着いたのが、
淡路島、四国、隠岐島、九州、壱岐島、対馬、佐渡島、本州の8つの島(大八島)であり、
沖縄に帰る途中で見つけたのが、吉備児島、小豆島、大島、女島、知訶島、両児島。
この出来事についての伝承を基に、国生みの説話が書かれたものと推察します。

●浦島太郎伝説の下敷きとして

そして、1万年前まで九州と沖縄を行き来して縄文草創期の文化を保持していた部族が、
7300年前に、伝承の地、九州に戻ったら、伝承されていた様子とすっかり変わっていた。
この一連の出来事についての伝承が、浦島太郎伝説の一つの基になったものと推察します。

●天の岩屋戸神話の下敷きとして

一方、九州南部には、鬼界カルデラから、高さ100m以上の火砕流が這うように襲いました。
この時、標高の高い所は、火砕流の熱からは逃れても、火山弾の被害は受けたはずです。
縄文住居の屋根が突き破られ、命を落とした者もいたでしょう。

洞窟に逃げ込み、助かった人々もいたでしょう。(天岩戸神社東本宮に近似の伝説)
しかし、成層圏に達した噴煙は、何十日も太陽をさえぎり、昼なお暗い日が続いたはずです。
その後も、薄曇りのような状態で、野山の草木の多くが枯れたはずです。

この出来事についての何らかの伝承を、スサノオ神が、高天原で暴れた説話や、
アマテラス神が天の岩屋戸に隠れた説話として書き換えたものと推察します。

●黄泉の国神話の下敷きとして

また、イザナミの命とイザナギの命の黄泉の国の物語も、この状況で読み解く事ができます。
火砕流に襲われた所では、噴出物で厚さ60cm以上埋め尽くされ、
その下に多くの遺体が埋まってしまったものと推察します。

生き残った者が、親族を探して、噴出物を掘り返す者もいたでしょうが、
やっと探し出しても、火傷でただれた遺体を見ることになり、
かえって、心的外傷をうけた者も多かったことでしょう。

この伝承を基にした話として、イザナミの命が火の神をお産みになられた事が原因で亡くなり、
イザナギの命が妻を連れ戻そうと、黄泉国に行き失敗して命からがら戻る物語が創作された。
と推察します。


【国生みの二神・初代天皇の母方の部族】

国生み神話から天照大神の天の岩屋戸までの説話と、浦島太郎伝説の基になったのは、
7300年の鬼界カルデラの巨大噴火が引き起こした出来事や、
1万2千年前の縄文早期から縄文前期初頭の沖縄と本土との係わりであると推察しました。

高天原の洞窟で難を逃れた部族と、沖縄から噴煙を見てやってきた部族が、
出会って合流し、子孫を増やしていったのが、皇室の祖先。
つまり、高天原と沖縄本島からきた二部族が、日向の地で出会って子孫を増やした。
そして沖縄本島から来た部族にとっては、古い伝承で語られた島々の実在を確認した。
この出来事を、二神が、高天原から、一旦、オノゴロ島に天下り、
そこで国生みをしたと書き換えたのではないかと推察します。

洞窟に逃れて、命からがら助かった、高天原の部族は、心的障害にかかり、
なかなか洞窟から出ようとしない者も多かったはず。
沖縄からやってきた部族が、陽気に歌って踊って慰め、これにより、二つの部族が融合した。
この出来事を基に、天照大神を天の岩屋戸から誘い出す物語が創作されたと推察します。

ならば、何故、ありのままを書かなかったかと言う疑問がわきます。
7300年前、災害の時点でも、高天原の生存者の方が、沖縄からの部族より多く、
文化や技術面も発達していたはずであり、高天原の方を皇室の故郷として描いたと考えます。

また、ありのままを書いてしまうと、高天原が、悲惨な地として描かれることになり、
皇室の故郷として相応しくなくなってしまうのではないかと言う配慮が働き、
高天原の権威を高める為に、様々な創作や、つなぎ合わせが行われたものと推察します。

この国生み神話に登場する沖縄からの部族は、7300年前の部族であり、
7300年前の沖縄は、「日本人の起源、・・」の@DにBCの部族が合流していたはずです。

海幸彦の隼人は、鬼界カルデラの巨大噴火を生き延びたDの部族に、5500年前から、
原始的農耕や遠洋航海術、釣針喪失譚をもたらした、Eのインドネシア系が合流した集団。
沖縄(竜宮城)からの豊玉姫の部族は、
3000年前のEの部族が連れてきたインド系の集団で、水稲栽培をもたらしたと推察します。

この2つを大気津比賣(五穀の起源)の説話として、古事記に取り入れたものと推察します。
食物の起源神話もまた、オーストロネシア語地域全般に、広く分布しています。

5500年前に渡来した部族より、3000年前に渡来した方の部族。
山幸彦の妻であり、初代の神武天皇の母として高い地位を得たものと推察します。

日向にいた部族は、これにより、水稲の種籾とインド系の技術を入手し、
その後の時代に群雄割拠することになる九州の中で、
小振りでも堅固な守りを維持できたものと推察します。

ただし、火山灰質の土地が多く、広く水田開拓が出来なかったので、
その後は、水田適地が広がる九州北部の方が、勢力を伸ばすことになったでしょう。
この事が、新天地を求め、旅立つ事になる、神武東征の要因の一つにもなったのでしょう。


【出雲神話の謎】

上巻において、一番不自然に挿入されているのが、大国主命からの国譲り説話。
縄文時代には、このような国譲りが行われる必然性がなく、大和王権すら存在していません。
出雲王権が滅亡したのは、弥生時代が進み抗争が激しくなってからの事と推測できます。

出雲王権の古い痕跡は、1世紀前半までの山陰地方特有の銅剣形祭器、(参考書B、P188)
1世紀中頃に埋納されたとみられる銅鐸、(参考書B、P189)
2世紀末頃、四隅突出型墳丘墓の出現などです。(参考書B、P240)

一方、大和を中心として広がる文化として、前方後方墳があります。(参考書B、P286)

3世紀後半から広がっているが、出雲には6世紀中頃になるまで現れていません。

また、前方後円墳は、2世紀末の纒向型から3世紀中頃以前の庄内式、
3世紀後葉から4世紀初めの布留0式へと変化しながら、
日本列島中部から九州まで広がりました。(参考書B、P261)

前方後円墳と前方後方墳は、入り混じって分布していますが、
山陰地方には6世紀になるまで現れていません。

出雲王権は、3世紀から5世紀の何れかの時期に滅亡、もしくは衰微したと推察できます。
古事記上巻の中で語られると、実在の年代とは、随分とずれてしまいます。
実在の年代としては、古事記中巻、ことによると、下巻にあたる時期であり、大幅な改編です。

何故そうする必要があったのか、推理する事で、重要な事が分かりそうです。
伝承が、古事記の編纂方針と、相容れなかったとすれば、次の可能性が考えられます。

A.大和王権が、出雲王権を滅ぼしたが、祟りを非常に恐れた為、大変丁重に扱った。
B.国譲りはあったが、その末裔が大和王権支持の一番の豪族で、その意向に配慮した。
C.表沙汰には出来ないが、皇室の中に、出雲王権の血脈が濃く流れている。
D.大和王権には、出雲王権への強い憧憬があった。
E.多くの有力豪族に、出雲王権への根強い憧憬があった。
F.大和王権以外の豪族の記録にも配慮したが、不平等になる為、滅亡した豪族を書いた。
等々、何通りかの理由が推測できます。

出雲の遺構で、3世紀から5世紀にあたるものは、目立った発見は未だありません。
出雲王権は、3世紀早々に衰滅し、有力者不在の空白時期に入ったものと、私は推察します。

この事と、大和王権が西日本の大部分を勢力下に置いた時期を考慮すると、
出雲王権を滅ぼした相手は、大和王権ではなく、違う相手だったと推察します。
これを、卑弥呼の朝貢を神功皇后の新羅遠征に変えたのと同様、拝借したものと推察します。

それにしても、出雲王権に係わる物語が、異様に長く、並々ならない丁重な扱いです。
この理由が、上記のDとFだと推測すると自然であり、私はこれを支持します。

大和王権と出雲王権とは、神武東征前からの古い親戚付合いで、以後もしばらく続いていた。
九州北部の専制的国家の連合体だった倭国が、実は、出雲王権を滅ぼしたのであり、
この倭国の存在を歴史の記憶から消す為に、出雲王権滅亡の原因を書換えたと推察します。

出雲王権の末裔としては、御柱祭で有名な、諏訪大社があります。
出雲大社は、平安時代の姿が復元されていますが、
ずっと以前、縄文時代から巨大柱の信仰があったものと推察します。
出雲大社の立地条件、縄文時代の海との関係が、青森の三内丸山遺跡と良く似ています。
そして、三内丸山にも、4000年前まで続いた巨大な六本柱の建造物がありました。

三内丸山と出雲と日向を結ぶのは、「日本人の起源、・・」Eの部族だと、私は推察します。
そして、このEの部族との係わりは、日本列島各地の豪族の多くが持っており、
とりわけ、出雲王権が、Eの部族との係わりが濃く、有力豪族の多くが、懐かしんだ。
既に滅んでしまっていた出雲王権に対し、皇室の祖先も、大きな恩があったと推察します。

その恩とは、日本列島に、水田耕作の先進技術を運んできた海人集団であると言う事です。
温帯ジャポニカの種籾や栽培技術も、インド系の鉄器技術も、水田造成の土木技術もです。
大国主命は神仏習合すると、またの名を大黒天、元々は、インドの神様マハーカーラです。

北部九州の方が、気候の点で勝っており、最初の大規模な開拓は北部九州で始まりました。
出雲の水田開拓は小規模でも、各地の部族は、出雲へ行き水田稲作を学べたと推察します。

日向にも、水田稲作はいち早く入りましたが、土質の適さない地域が多く、
この為、早々に、新田開拓の新天地を求めて、神武東征が行われたと推察します。


【大和王権の拡大期】

上巻では、大国主命が影響力を行使していた豊葦原中津国(とよあしはらのなかつこく)が、
騒然としてきたので、大国主命にはもう任せておけない、天照大神の子孫が治めるべき、
として、何度も試行錯誤の後、天照大神の子孫が、国を譲り受けたことになっています。

しかし、これほどの重大事を家来にやらせ、天照大神の子孫は国譲りに立会っていません。
子孫は、出雲へも寄らず、瀬戸内海を縄文時代さながら旅し、熊野経由で奈良に着きました。
豊葦原中津国には、一時的に逗留してはいますが、実態としては、素通りしただけです。
実際には支配権を譲り受けていなかったのです。
そして、出雲王権は、未だこの時点では滅んでいなかったと、私は推察します。

では、いつから出雲を勢力下に置けるようになったのでしょう。
大国主命の出雲王権が滅んだずっと後の時代、継体天皇の頃からだと、私は推察します。
前の武烈天皇までは、皇室は奈良盆地を代表する豪族であり、直轄支配は河内まで。
周辺の豪族との同盟も、東はせいぜい関東甲信越まで、西は半分程度かもしれません。

武烈天皇の時代までは、奈良盆地で育った豪族同士で、内向きの団結はあっても、
より広範囲の団結はなかったものと推察します。
そこへ、継体天皇が入り込むのは、かなり抵抗があったものと推察します。
現代でも、内向きの運営だった団体が、外部で育った理事長を容易には入れないのと同じ。

外部で育った天皇を迎え入れた事で、周辺の豪族の気持ちが分かるようになり、
同盟だけだった豪族が、大和王権の政権運営にも参画できるようになり、
団結の輪が広がると同時に、同盟の範囲も急拡大したものと推察します。


【祭祀の形式】

縄文時代の3地域の伝承されていた神事が基礎になっていると推察します。
高千穂の伝承、沖縄の伝承、奈良盆地の伝承の3つの神事です。
特に、奈良盆地に伝わっていた神事は、アイヌの神事にも近かった為、
御幣」と「木幣(イナウ)」、「破魔矢」と「花矢」等の類似性が残ったものと推察します。
これを土台に、中国から陰陽道などの要素が加わって、神道になったものと推察します。


参考書
@.古事記(上) 次田真幸全訳注 1977年 講談社学術文庫
A.一万年の旅路 ポーラアンダーウッド著・星川淳訳 1998年 翔泳社
B.王権誕生 寺沢薫著 2008年(原本2000年) 講談社学術文庫
C.日本の神々 谷川健一著 1999年 岩波書店
D.海を渡ったモンゴロイド 後藤明著 2003年 講談社
E.縄文宗教の謎 吉田敦彦著 1993年 大和書房





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